観音寺

近江堂

 山号を永昌山と号し、本尊十一面観世音菩薩、曹洞宗三ツ淵正眼寺の末寺。
 もとは真言宗の巨刹であったが、応仁の兵燹(ヘイセン)(1467)に遭ったと伝えられている。八剣社の棟札によれば、慶長十年(1605)徳書記の名が見られ、次いで、同十六年(1611)八月、当地の大旦那 熊沢重左衛門の志願により正眼寺第二十五世日山和尚を招して中興とし、延宝二(1765)年比丘用門観音堂を再興した。明治十年六月二十六日(1877)据置許可。明治三十(1897)年再び炎上の厄に遭い、更にお堂を再建。明治三十五年庫裡を再建した。現在の庫裡は昭和三十年代に再建したものです。
 近江堂は、昭和十六(1941)年十一月二十六日観音寺に所属することを申請し、昭和十七年二月十九日認可された。


鐘楼門

外の観音様
 鐘楼門は、阿部家の下屋敷の門を移築したものと伝えられています。
 阿部家は、徳川時代尾張藩の重職で、瀬部などを中心に八千石を領しており、その下屋敷は、瀬部字富士下にありました。